ゴールボールは自分を成長させるツールの一つ

 私自身、初めてゴールボールを体験したのは高校の体育の授業でした。その時は特別な印象はありませんでしたが、高2の時に体育の先生に、「選手がケガをしてしまって人数が足りないから手伝ってほしい」と言われたのです。軽い気持ちで引き受けて、2、3ヵ月ほど練習をして秋の大会に参加しました。本番の何とも言えない緊張感や、負けた時の悔しさを体感して、「もっと強くなりたい」と思ったのです。それで部活に参加するようになって、次の大会を目指すことを決めました。

 高校を卒業後もゴールボールを続けていたのですが、初めてパラリンピックを目指す代表合宿に参加させていただいた時、代表選手の皆さんの気持ちと、私の気持ちに温度差があることを感じてしまいました。自分はまだそこまでのめりこめていないって…。また、大学で新しいことを学びたかったこともあり、一度ゴールボールから離れて学業と向き合い、もっと社会経験を積みたいとも思ったのです。この時に学んだ欧米文化や英語が、後日、この先の道を切り開く大きな力になりました。

 そして、この2年後にゴールボールをしている後輩にばったり会ったのがキッカケで、復帰を決意。この時は、パラリンピックという目標を持って、自分の限界にチャレンジしようという気持ちで臨みました。なぜ、この時は熱くなれたのか―。それは、当時、自分には自分を追い込める強さがないと思っていたのです。だから、何かを全力でできるようになりたいと考えていました。ゴールボールを再開した時に、自分の好きなこのスポーツで全力を尽くし、自分を成長させたいと思ったのです。ならばパラリンピックを目指すぐらい、すべてをかけてみようと。ゴールボールは、自分を成長させるツールの一つだったのです。

北京パラリンピックに出場、そして普及の道へ

 2008年の北京パラリンピックに選手として出場を果たしました。結果は7位。北京が終わった後、世界のゴールボールの現状を知りたいと思いました。そして、その準備のために選手としての活動を再び休止。この時に前述の障害者リーダー育成海外研修派遣事業の助成金を得ることができて、アメリカやリトアニアなど欧米10ヵ国を回ってくることができました。視察の段取りは、すべて自分自身でメールを送るなどして予定を組みました。視覚障がいを持つ私が、海外へ1年間の一人旅。当然、かなり怪しかったようで、リトアニアを訪問した際には「最初はスパイかと思ったよ」と冗談交じりに言われたものです。運が良かったのかもしれませんが、危ない目に遭うこともなく、無事に日本に帰ってくることができました。当時26、27歳。少し無謀だったかなと思いますが、いい経験を積むことができました。

 帰国後はプレーヤーとしてではなく、普及活動に専念することを決意しました。当時、そういった活動をしている人がいなかったこともあり、少しでも日本のゴールボールの役に立てるならば、と思ったのです。現在、国内での普及活動は東京都を中心に行っており、障がいの有無にかかわらず初心者、未経験者向けの体験会を開いたりしています。ゴールボールが視覚障がいを持つ人たちの社会参加のキッカケや、自己表現の場として活用してほしいと思いますし、同時に、単に視覚障がい者のスポーツとしてではなく、健常者の方も「今日はゴールボールをして遊ぼうか!」と言って一緒に楽しめるような環境になってくれれば、本当に素晴らしいと思っています。