恩師ジム・クナーブとの出会いは、「プリーズ ティーチ ミー!」

 2004年に僕は日本人初のプロ車いすランナーとなりました。プロを目指して約10年で、ようやく念願がかなったわけですが、ここに至るのに、恩師であるマラソンの元世界チャンピオン、ジム・クナーブなしには語れません。

 1993年頃、僕は車いすマラソンでそろそろ日本一を狙える位置にまで来ていたのですが、どうしても一人のライバル選手を越せずにいました。彼は30km地点でいったん集団の後ろに引っこみ、そこからタイミングを見極めつつ、最後にドカンとスパートをかけるレース展開が得意。それで何度も優勝をさらわれていました。

 そこで考えたのが、「よし、世界チャンピオンに教えてもらいに行こう」ということ。世界チャンピオンを目標にすれば、世界に近づけて、日本一をいつの間にか追い越せるのではないかと考えたのです。まぁ、今考えると無謀な話なのですが、世界チャンピオンのジム・クナーブに会うため、彼が出場するであろう1994年のボストンマラソンに出向きました。もちろん連絡先も分からないわけですからアポなしです。行ったら会えるかな。会えたらいいな。そんな気持ちでボストンに向かいました。

 幸運なことにジムは大会に出場しており、僕はずかずかと彼に近づいて行き、声をかけることができたのです。何て言ったかって? 片言のカタカナ英語で「マイ ネーム イズ ジュン。プリーズ ティーチ ミー!」って(笑)。でも、言ってみるものですね。何となく分かってもらえたようで、ジムが名刺を差し出してくれたのです。その時に彼は「ここに連絡してきなさい。そのかわり英語でね」というようなことを言ってくれました。

「日本を変えてみろ」という恩師の一言で、プロ車いすランナーの道を切り開く

 即実行が僕の持ち味です。帰国した翌日、すぐさま英会話スクールに入会。3ヵ月後には覚えたての英語で、国際電話をかけていました。とにかく英語を勉強しているということを伝えたかったのです。ボストンマラソンで僕が話しかけたことも彼は覚えていてくれました。“ジュン”という名前が、アメリカ人にも覚えやすかったようです。それから、練習に関する質問事項を箇条書きにしてファックスで送るなどして、ジムとのやり取りが始まりました。それまでは1日10kmしか走っていなかったのを、毎日40km走るようにアドバイスしてもらったり、勝負へのメンタル法なども学びました。その後、彼の住むカリフォルニアを訪ね、本格的に練習の指導を受けることに。これがまた、驚きの連続でしたね。

 まず、ジム・クナーブがプロの車いすランナーだと知り、衝撃を受けました。僕は仕事を休んでホームステイに行きましたから、世界チャンピオンも仕事を休んでわざわざ練習に付き合ってくれるのだろうと思っていたのですが、なんと「走ることが仕事」だと言うではありませんか! さらに美しいロングビーチ沿いで練習して、その合間にオシャレなレストランやカフェでランチをしてコーヒーを飲み、昼寝をはさんで、午後もう一度練習に行く。普通だったら仕事をしている時間に、そういった時間を過ごしているなんて、もう本当に憧れですよ。アメリカはそういう国なのだって改めて感じました。日本にはまだそういった風は入っていませんでしたし、そもそも車いす競技のプロ選手なんて考えもしませんでしたから。

 でも、その時、ジムはこう言ったんです。「おまえが日本人初のプロ車いすランナーになればいい」って。それから、「10年前のアメリカにもプロはいなかったが、自分が築き上げた。だからおまえも日本を変えてみろ」と…。プロになるには例えばプロ野球という組織があり、ドラフトにかかるというのが唯一のプロへの道筋。日本人には、「ないならつくればいい」という発想はないですよね。驚くばかりの僕に、ジムは様々な資料を見せてくれました。企業に自分を売り込むプレゼンテーションの資料などです。当時、僕にはまったくそういった知識や情報がありませんでしたから、ジムの作成した英文の資料を元に、そこから必死で勉強してプロになるための一歩を踏み出したのです。英語を勉強していたのも大きかった。得られる情報が全然違いましたから。それが1996年の初めでした。

 現在は、物品提供を含めて約20社の企業がスポンサーとしてサポートしてくれています。忘れもしません、最初の契約は米国系航空会社でした。アメリカ国内の大会移動をビジネスクラスのフライトで提供してくれるというサポートでした。それからは練習の合間を縫ってスポンサー探しの営業を続けました。電話番号の案内サービスで企業の代表番号を調べては、飛び込みで電話をかけ、広報部につないでもらい、何とか話を聞いてもらうようにお願いしたのです。

 正式にプロ車いすランナーとして独立したのは2004年です。それまではスポンサー収入と会社の給料のダブルインカム。給料は生活費に、スポンサー収入は遠征費に回していましたが、会社の給料がなくなっても、スポンサー収入で生活費と遠征費が賄えると判断して会社を退職したのが、その年です。ホームステイから帰ってきてプロを目指して9年半。ジムと同じように、結果的に約10年かかってプロになったわけです。