874gの未熟児で生まれ、未熟児網膜症で全盲となった小野さんは、山あり谷ありの水泳の道を両親の支えで猛進。新社会人となり、夢に向かって泳ぎ続ける21才の若きトップスイマーに、今の想いを伺いました。

Profile 小野智華子おの・ちかこ/1994年10月2日生まれ、21才。北海道出身。身長159cm。3、4才頃から水に親しみ、視覚障がい者水泳競技の道へ。2009年東京2009アジアユースパラゲームズで100m背泳ぎ・50m自由形・100m自由形で優勝、2010年広州アジアパラで100m背泳ぎ優勝、2012年ロンドンパラでは100m背泳ぎに出場し8位入賞。北海道高等盲学校→筑波大学附属視覚特別支援学校を卒業し、今春、あいおいニッセイ同和損害保険株式会社入社。得意な種目は背泳ぎ。

トップスイマーとの出会いに興奮。「私も世界に挑戦したい!」

 小さな頃から水が大好き。浮いたりもぐったり、水の中ではのびのびと自由になれる感じが好きでした。母が水泳をやっていたこともあり、幼稚園生の時から帯広市にある障がい者の水泳教室に通い始めました。お風呂で遊ぶのも好きだったのですが、プールはとっても広くて楽しくて!大喜びで通っていました。競技として取り組むようになったのは、小学2年生頃からです。当時ご指導いただいていた真田正樹コーチに声をかけてもらい、静岡県で行われた水泳教室に参加しました。そこで出会ったのが、今もお世話になっている寺西真人コーチです。

 小学3年生の時に、寺西コーチが主催する強化合宿に初参加しました。合宿には多くのトップスイマーの先輩方がいらして興奮したんですよ!こうして合宿でご一緒させていただいた先輩たちがさまざまな大会で活躍されているのを観て、『私も世界に挑戦したいな』とその頃から世界を意識するようになりました。

挫折、葛藤、高校2年生で引退宣言も!支えてくれたのは両親のアメとムチ

 今でも忘れられない大会は、中学1年生の冬、2007年にアメリカ・メリーランドで行われたUSオープンです。メインプールがすごく寒かったのをよく覚えています。成績はまだまだだったものの、タイムは自己ベスト、世界を目指してやる気満々でした。でも、帰国後間もなくして、目標にしていた大会で背泳ぎが大会種目から外されてしまったということを知り、愕然としました。まさにどん底に突き落とされた感じでしたね。もう泳ぎたくない、もう辞めようと自暴自棄になってしまいました。ここから挫折と葛藤の山あり谷ありの競技生活が始まります。

 友達と遊びたかったし、高校受験もしなければならないなどを理由に、水泳からしばらく離れました。でも、高校1年生の時に中国・広州のアジアパラに出られるチャンスがあるからと復帰。ここで100m背泳ぎ金メダル、100m自由形・200m個人メドレーで銅メダルを取ることができたのです。でも、これで完全燃焼してしまって。また気持ちが切れてしまい、『引退します』と公言してしまったのです。
そんな私を見た母に『智華子から水泳をとったら何があるの?』と言われました。『やっぱりもう一度やってみよう』と考え直した時は、ひたすらお詫び行脚で、『もう1回やります、すみませんでした』と頭を下げて回りました。寺西コーチからは冗談交じりに小言を言われましたが、皆さん温かく迎えてくださって。泳いでいるともう泳ぎたくないと思うし、泳がないとまた泳ぎたいと思うし。私はわがままであまのじゃくなようです(苦笑)。あの時は本当にご迷惑おかけしてしまったなと、今も反省しています。

 以前、寺西コーチに『智華子の才能でここまで来たというよりも、お母さんの情熱でここまで来られたのだ』と言われたことがあります。母が何をどう訴えていたのかは知りませんが、たしかに母は何事にも厳しく、教育熱心でした。水泳だけではなく、食べ方や人間関係など、毎日何かしら注意されていましたね。言われすぎて何を言われたかは覚えていません。しかも私は小学4年生頃から反抗期に入りまして(笑)。何を言われても反発ばかり。当時のホームビデオを見ると、母が何か言うたびに『それは違う』とか『それはやりたくない』と言って聞き入れないのです。ことに水泳においては壮絶でしたね。『泳げない人に言われなくない』なんて言ってしまって…。結局は甘えていたのだと思います。『勉強をしなさい』ともよく言われていたのですが、言われれば言われるほど勉強から遠ざかってしまったのが少し後悔です。あの時、ちゃんと素直に聞き入れていれば良かったな、なんて今さら思っています(笑)。その一方で、父は優しくて。結果的に両親のアメとムチでバランスが取れていたのかなと思います。