それぞれの渡米、マイク・フログリーとの出会い ~1994年、及川編~

――アメリカ留学はどういった経緯、どういった目標で決断されましたか。

及川「渡米は、実は自分の中で行き詰まって出した選択でした。中学を卒業して高校1年生で骨肉腫というガンを発症。留年して一度復学したけれど、病気が再発し、結局、高校は出席日数も足りずに辞めざるを得ませんでした。トータルで5年間の闘病生活を経て退院したのですが、『さて何をしようか』と改めて世の中を見渡した時に、自分の居場所が分からなかったのです。大検は取るには取りましたが、「このまま大学へ行くのも…」と、色々な意味で迷いを感じました。一つは障がいを持っている自分にコンプレックスを感じていたのです。自分に自信が持てなかったし、こんな自分と世の中がどう関係していくのか、どうやって過ごせばいいのか、まったく分からなかったのです。しかも、病気が病気。ガンでしたし、一度再発もしている…。でも逆にだからこそ、思い切ったチャレンジをしようと思ったのです。はっきり言って自分にはどれだけ時間が残されているか分からない。それならば自分なりにドキドキワクワクするチャレンジをしないと、また病気に追いつかれてしまうだろうと…。

そこで自分自身を改めて見つめ直してみて、もともと好きだった英語を学ぶためにチャレンジをしてみようと、アメリカ留学を決意しました。ですから、最初は車椅子バスケとは関係なく、大学進学のため向こうへ渡りました。でも、英語ばかりやっていたら、『あ~バスケしたいな』って! 渡米して3、4ヵ月ほど経った時に、アメリカのイエローページ(電話帳)で調べて、車椅子バスケ関係の連絡先に電話してみたのです。すぐに日本から自分の車椅子も送ってもらいました。ここから本格的に車椅子バスケ中心のアメリカ留学が始まったのです。やるならトップを目指そう。そんな気持ちで全米選手権を見に行きました。そこで何を思ったのか、決勝戦の後、優勝チームのヘッドコーチのところへ行き、『私をチームに入れてください!』と頼みこんだのです。興奮してしまっていたのでしょうね。するとヘッドコーチが「いいよ。自分で段取りをしておいで」と言ってくれました。それからカリフォルニアまで車で2000kmを移動して、自らホストファミリーを見つけて、現地のコミュニティカレッジに入学。必要な単位を取得して、念願のフレズノ大学への編入を果たしたわけです。

また、この留学の間に私のバスケ人生を変える大きな出会いがありました。ある車椅子バスケのキャンプがあり、それに参加した時に、現在、車椅子バスケ界で世界一の名将と言われるマイク・フログリー氏と出会ったのです。フログリーはコーチとして天才的な人でした。つねに私が投げたボールを倍にして返してくれる人で、求めれば求めるほど答えの精度も高い。彼の言葉で印象的なものがあります。『私の持っているものはすべてあげるよ。でも明日、私はさらに成長しているから、誰も私に追いつくことはできないのだよ』と。その言葉通り、いつまでも前を歩いてくださる人、いつまでも恩師、師匠でいてくださる人です。そんなフログリーと帰国後も連絡を取り合い、日本で車椅子バスケのキャンプの企画を立ち上げます。この第1回のJキャンプに12歳で登場してきたのが、彼、香西選手だったのです。このJキャンプで『10年後、楽しみで賞』というプライズをフログリーからもらいます。そして、奇しくも、いや、予言通りですね、この10年後にはすでにアメリカへ渡っており、フログリーの下でプレーしているのですから、すごいですよね。中学3年間、高校3年間、そして大学4年間でまさに10年後です!香西選手は高校時代で、すでに日本選手権2度のMVPを獲得していますから、日本ではすでにトップの地位を築き、さらなる挑戦をかけた渡米だったはずです」

それぞれの渡米、マイク・フログリーとの出会い ~2001年、香西編~

香西「自分の中では(渡米は)そう簡単なものではなかったのです。12歳の時のJキャンプで、フログリーからアメリカの大学チームについて色々教えてもらいました。『私が教えているイリノイ大学に来ないか?』と声をかけていただきましたが、その時はまだ中学生でしたし、『口の上手な人だな』としか思っていませんでした。それが中学を卒業すると、ひんぱんにメールが来るようになったのです。『本当に来るなら、準備を進めるよ』と。さらに父親からは『今日アメリカに行くと言って、明日行けるような金額ではないから、行くならばそれなりに準備も必要だからどうするか決めなさい』と言われました。それでも1年ぐらいは心を決められずにいましたね。親元を離れること、言葉が通じない環境に身を置いて――、しかも大学で授業もテストもすべて英語という環境に身を置くのも怖かったです。もちろん、頭の中ではイリノイ大学に行ってフログリーの下で学んだ方が上達するというのは分かっていたのですが、なかなか自分の答えを引き出せなくて…。色々な先輩に相談しました。その中で晋平さんの言葉が一番自分の中でしっくりきたのです。晋平さんは、僕の中の意見を固めてくれたのですね。『なぜイリノイ大学に行きたいのか』『日本ではダメなのか』と聞かれ、自分の考えを言葉にするうちに、気持ちが固まっていったのです。

アメリカに留学して最初の2年半は、英語の勉強と編入に必要な単位取得のために、コミュニティカレッジに通っていました。練習生として活動には参加していましたが、当然試合や遠征に参加することはできません。だから皆が勝っても負けても悔しい思いばかりでした。本当の意味での喜びや悔しさを味わえないのですよ。負けたら負けたで自分がいたら何か力になれたのではないかと悔しかったですし、勝ったら勝ったで、少し寂しい気持ちもあり…。ですから、約2年半後に編入の合格を聞いたときは、本当にうれしかったですね。

忘れもしません。なかなか合格通知がインターネット上に出てこず、勇気を出して大学の事務局に電話をしてみたのです。もう後期が始まる1週間前で期限ぎりぎりの時でした。すると電話先で『合格していますよ』と言うのです。『そうですか、ありがとうございます』と言って電話を切りました。トレーニング室で練習をしている時だったので、チームメイトに『どうだった?』と聞かれ、『受かっているらしいよ』と言うと、『らしいって何だよ、本当かよ?』と聞かれたので、『多分…。念のため、もう一度確認してみて』と言って携帯電話をチームメイトに渡したのです。するとそのチームメイトが電話をかけ直してくれて…。すると彼が大きな声で『ヒロが入った!』と叫び出したのです。そこでチームメイトが一斉に喜んでくれて。その時のことを今でもよく覚えています。フログリーもとても喜んでくれていましたね。その約2ヵ月後に、全米大学選手権で優勝。夢のような経験でした。当時のスタメンの二人が現在のアメリカ代表に入っていますから、チームメイトにも恵まれての優勝でした。アメリカを背負って立つようなメンバーとプレーできたこと、世界一のヘッドコーチと呼ばれているマイク・フログリーのもとで戦術を学べたこと。僕はあの時にイリノイ大学を目指して本当に良かったと思っています。フログリーの言葉には、耳から入ってスーッと体内に入ってくるような感覚があるのですよ。なんかこう胃腸のあたりに入ってきてフッと落ち着くのです。これが『腑に落ちる』ということなのかなと感じました。印象に残っているのが、全米選手権の前の言葉です。『これまでやってきたことをやらずに勝っても嬉しくない。それならやってきたことをやってボロ負けした方がずっと嬉しい』とおっしゃったのです。彼はプロセスをすごく大切にする方で、僕自身もこの言葉にすごく共感したのを覚えています」