紆余曲折のマラソン人生 それでも走るのを辞めたいと思わなかった市民ランナーの始まりは、「楽しく走ろう!」

31歳という年齢で市民ランナーからプロランナーへ転向を決意したわけですが、なぜ、この歳で転向を決意したのか。そして、なぜ、そもそも市民ランナーだったのかを、紆余曲折のマラソン人生のエピソードを交えて、お話しさせていただきます。
今日に至るまで、私のマラソン人生は、挫折と葛藤の繰り返しでした。高校時代には相次ぐ故障に泣き、夢の都大路(全国高校駅伝)にも出場することが出来ませんでした。そんな私はいつしか「夢」を持つことを諦めて、達成可能だと思える「目標」だけを持つ、どこか冷めたアスリートになっていました。もちろん、故障するまでは、「駅伝で都大路に行きたい」、「インターハイで活躍したい」という“夢”を持つ、ごく普通の高校生ランナーの考え方をしていたと思います。しかし、長期的な故障に加え、父の急死が重なったことで、競技や人生に対する考え方が大きく変わりました。ただ、それでも私は、「走ることを辞めたい」とは思いませんでした。「環境を変えて、楽しく走りたい」と、そう思うようになったのです。そしてこれが、市民ランナー川内優輝の始まりとなりました。

公務員として仕事をしながら、市民ランナーとして活動していく中で、プロランナーへ転向するキッカケの一つとなったのが、2017年ロンドン世界陸上の代表選考をかけた2016年の福岡国際マラソンでした。当時の私は2014年末に負った左足首のケガの影響で、記録も順位も低迷していました。さらに本番直前にも、段差につまずき左足首を捻挫するなどのアクシデントに見舞われてしまいます。レース前日には部屋で足首を必死に冷やしながら、あまりにも惨めで涙が出てきたのをよく覚えています。そのような状況で迎えた福岡国際マラソンでしたが、レース当日は“雨の恵み”で集団のペースが想定より遅くなったことや、雨で冷やされて足首の痛みが麻痺したことなど、私にとってのラッキーが重なり、思いがけず自分のレース展開に持ち込むことができたのです。中盤では自分から仕掛け、2時間9分11秒でよもやの3位入賞。ロンドン世界陸上の有力候補となりました。ここから私は、少しずつ競技への熱い気持ちを思い出していきます。

まだ正式に代表選手に決まっていないのにもかかわらず、ロンドン世界陸上を想定して、年末年始の休みに、自費でロンドンにコースの下見に行きました。さらに、海外レースの経験を積むために、年明けの4月から大邱、プラハ、ストックホルム、ゴールドコーストと毎月海外のマラソン大会に出場。より質の高い40キロ走を目指し、8か月間にわたって前向きな気持ちでトレーニングに励みました。この時、長い間感じることの出来なかった、“競技に対する熱い気持ち”が蘇りつつあることを感じていました。

グッと抑えていた陸上への情熱を解き放ち、31歳でプロランナーに転向を決意。今やらなければ一生後悔する!

ついに迎えたロンドン世界陸上では、これまでで最も長い9泊10日の日程でロンドンに滞在しました。現地入りしてからも24時間、競技のために集中できる日々を過ごし、本当に幸せな気持ちになったのを覚えています。しかし、本番では、私にとっては過去最高の9位となりましたが、「最低限の目標」として掲げた8位入賞にはあと一歩届きませんでした。それでも自分の中では「やり切った」という気持ちでしたので、ロンドン世界陸上直後は、「あとは日本代表の座は若い世代に託して、これからは世界の他のレースを目指して頑張っていこう」。ただただそういう気持ちでおりました。が、しかし……。帰国してしばらくすると、ロンドン世界陸上を目標に走ってきたあの充実した日々のことが頭から離れなくなってしまったのです。

24時間、競技を第一優先に考えられた素晴らしい毎日、ロンドン世界陸上に向けて熱い気持ちが戻ってきたことに対する喜びなど、様々な記憶がよみがえってきました。このとき、「プロランナーになって、日本全国・世界各国を飛び回る」という夢が、私の中に再び沸き上がってきたことにも気づきました。もしかしたら、心の奥底に「無理だ」、「できない」と現状維持の心で抑え込んでいただけで、ずっと「プロランナーになりたい。競技を第一優先にするために時間を自由に使いたい」という現状を打破したい気持ちはあったのかもしれません。念願であった“競技第一優先”の充実感を知ってしまった私は、再びその環境に身を置きたいという気持ちを抑えられなくなっていきました。気持ちが膨らむ中で、私より先にプロランナーに転向していた弟の鮮輝が、自己ベストを約5分も縮めたことで、ついに私の心は決まりました。「私も人生最後の夢を追いかけてみたい! 今、決断しなければ、一生後悔する!」 そう思い、プロランナーに転向する決意が固まったわけです。