Profile 秋田 啓 あきた・けい/1990年2月22日生まれ、31歳、岐阜県出身。ポジションはセンター。20歳から車椅子バスケットボールチーム「岐阜SHINE」で競技を始める。2017年A代表入り。史上初の銀メダルを獲得した2020年の東京パラでは、高さを生かしたゴール下、リバウンドを武器に攻撃の中心選手として躍動した。2022年9月よりドイツリーグのRBC Koln 99ersへ移籍。

史上初の銀メダルに輝いた車いすバスケ日本代表の秋田啓が、いよいよドイツリーグに挑む。背番号は25。これは日本代表に初招集されたときの番号で「初心忘れるべからずの意味を込めて」だという。競技との出会いから、東京パラで銀メダルの快挙達成を振り返りつつ、ドイツリーグ参戦への意気込みを伺った。

小・中学校では野球少年。将来は自分のカフェを持てたらいいな

どんな幼少時代かといわれましても…、とくにこれといったものがないタイプでした。祖父、父、兄がやっていた影響で、小学3年生から野球を始めました。ポジションはキャッチャーが多かったかな。スポーツが得意というわけでもなかったので、まぁ、楽しく人並みにという感じです。クラスでもとりわけ目立つ存在というわけではなかったかな。うーん、自分ではどういう存在だったか分からないなぁ。ただ、勉強はほとんどしなかったです。これだけは覚えています(笑)。中学を卒業後は専門系の製菓コースに進みました。部活には入らず、とにかくアルバイトをしてお金を貯めて、家を出ようと思っていて。そもそも高校に行かずに働こうかと思っていたくらいでした。自分でお金を稼いで自分で生活したいという気持ちが強かったのです。独立心ですか?というよりも、高校に行って勉強することに当時は意義を感じられず、ならば働いてお金を稼ぎたいなと。製菓コースを選んだのは、調理技術と違って製菓の技術は学ばないと身につけられないと思ったのと、もう一つは、将来的に自分のカフェを持てたらいいなと思っていたので、その役に立つかなと思ったからです。

車いすバスケなら、仲間もできるし、入りさえすれば何とか続けていけそう

18歳のときのバイク事故で下半身に障がいが残りました。高校を卒業してバイクに乗り始めて3、4日という時でした。事故をした直後はとにかく痛くて。リハビリも治療も痛いし、そういう意味では「さんざんだな」と思いましたが、事故を起こしてこうなったのは自分のせいなので、障がいが残ったことに関しては「しょうがないな」という気持ち。どん底まで落ち込むとかそういうことはなかったですね。だいたい2年ぐらい、治療とリハビリの生活を送っていました。20歳のときに、ようやく病院に通わなくてもよくなったので、何をやろうかと考えて、まずはスポーツを始めようと思いました。パラスポーツでそのとき僕が知っていたのは、陸上、テニス、バスケットボールぐらい。陸上は、そもそも走ることが好きではなかったし、しんどそうだったので止めておきました。球技は好きでしたが、テニスは一人で行動しなくてはいけないという思いもありましたし、プレイのイメージが持てませんでした。その点、バスケだったら、仲間ができるし、自分と近い障がいを持った選手と知り合えて、情報交換もしやすくなる。入りさえすれば何とか続けていけるかな、と思ったのです。インターネットで調べて、岐阜県内で活動する車いすバスケットボールチーム『岐阜SHINE』にメールで問い合せました。でも、いくら待ってもリターンがなくて。ホームページに練習日が載っていたので、勝手に訪問してみました。これはなかなかの冒険でしたね。岐阜県内とはいえ、知らない土地を、慣れない車を一人で運転して2時間弱。当時の自分にとっては、ものすごく遠い場所に感じたのを覚えています。車いすバスケを初めて見た印象は、「車いすでこんなことができるんだ、すごいな、なんか楽しそうだな」でした。チームの方に、「来週もあるからおいで」と声をかけていただき、そこから毎週通うようになりました。初めの頃は、できないことばかりで、どうしたらできるようになれるか、ずいぶんもがきましたね。チーム練習は週に1回でしたので、このペースでは上達できませんし追いつけません。場所を探しては自主練をしたり、先輩に相手をしてもらったりしていました。