2016年リオパラは自宅で観戦。当時は「まるで他人事」でした。

競技を始めて3年後にはU23に選ばれましたが、“選ばれた”というより“ラッキーだった”というべきで…。今でこそ組織として連盟も整備されてきましたが、当時はカテゴリーもなく、U23の大会があれば、そのとき23歳以下で大会に出られる選手が出ていたという感じ。セレクションされた選手でチーム作りをして、というものではなく、僕は出場できる条件がそろっていて運が良かったというのが、正直なところです。2016年のリオデジャネイロパラリンピック前には、A代表の合宿に追加招集されて参加させていいただいたのですが、もちろん、このタイミングで自分が代表に関わろうなどという気持ちはまったくありませんでした。ですから、選ばれなくて悔しいという気持ちはこれっぽっちも。リオパラの試合は自宅のテレビで観戦していましたが、『あぁ、すごいな』って、もう他人事でしたよね(笑)。でも、リオパラが終わった時点で、2020年の東京パラリンピックを目指すチームのスタートラインに立てていたことは、大きかったと思います。ちょうど日本チームが、根本からチームを作り直そうという時でしたから。

これまで続けていたバスケでは世界に通用しない、チームとして変わらなくてはいけない、これまでのバスケを見直して壊して捨てて、それを再生するんだ。そうスタッフが舵を切ったのがこのリオパラ直後でした。どこよりもタフに、どこよりも走ってトランジションバスケをするというチーム作りにシフトされました。当時は『ベリーハードワーク』とチームコンセプトを掲げ、チーム再建に挑みました。これまでの合宿は5日間、1日2部練習だったのが、1週間、1日3部、4部練習に。とにかく走り、フィジカル的にハードな練習が課されました。代表合宿ですからね。スタッフがそう課すのですから、もうやるしかありません。なぜそれが必要なのかという説明に対して、それを信じて納得して受け入れるしかありません。リオパラが終わってから2018年のドイツ世界選手権までの2年間は、もちろん、東京パラに向かってはいるけれど、チームの再建というのがそれ以上に重要視された時間でもありました。世界選手権は、結局これまでと同等の9位に終わり、結果だけみると変わっていなかったのですが、チームとして手ごたえを感じることができましたし、方向性として間違ってなかったという実感がありました。そしてここからの2年間、3年間は東京パラに向けて、いよいよチーム作りが研ぎ澄まされていった時間だったように思います。

パラリンピックは特別な大会。メダルが確定したとき、歴史的瞬間にいると実感した

新型コロナウィルスの流行で1年の開催延期を経て、ようやく迎えることができた東京パラリンピックは、本当に最高の大会となりました。僕にとっては初めてのパラリンピックでしたが、他の大会と比べられるものではなく、競技者にとって、とにかく特別な大会だということを改めて実感することができました。11日間で8試合というハードスケジュールでしたが、試合に勝っていましたし、疲労感よりも楽しい方が先でした。合宿が1日3部4部練習だったことを考えれば、むしろ1日1試合やれば終わりでしたからね(笑)。緊張もしていたと思いますが、ほどよい緊張感でした。周囲からの『楽しそうだね』とよくいわれたので、それだけチームの状態も良かったのだと思います。予選を含め一番印象に残っているのが、準決勝のイギリス戦です。もちろん、日本にとって初めてとなる、メダルのかかった試合だったというのもありますが、何より心に残っているのが、残り数秒で日本がリード、もうすぐメダルが確定するという場面です。

僕は少し前にベンチに下がっていたのですが、横で長年にわたって日本を背負ってきた藤本(怜央)さんが、感情をこらえきれず涙してしまっていたのです。まだ、試合が終わっていなかったので、「最後までしっかりやり切るぞ!」という声もベンチからあがりましたが、それでも抑えきれないものがあったのだと思います。今までの先輩がたが成し得なかったことを達成する瞬間に、間違いなく自分は立っているのだ、ということを実感し、感極まるものがありました。