Profile 及川 晋平
おいかわ・しんぺい/1971年4月20日生まれ、45才、千葉県出身。16歳の時に骨肉腫となり、5年の闘病生活を経て、「千葉ホークス」に加入。22歳でアメリカへ留学。全米選手権優勝のフレズノレッドローラーズに加入するため、シアトルからカリフォルニアへ移りフレズノ大学に編入し本格的に車椅子バスケの道を切り開く。帰国後も名将マイク・フログリーとともに車椅子バスケのJキャンプなどを開催し意欲的に活動の幅を広げている。「NO EXCUSE」ヘッドコーチ。‘00年シドニーパラリンピック日本代表。‘12ロンドンパラリンピック日本代表アシスタントコーチ。現在、日本代表ヘッドコーチ。
Profile 香西 宏昭
こうざい・ひろあき/1988年7月14日生まれ、27才、千葉県出身。12才で車椅子バスケと出会い、「千葉ホークス」入り。高校時代に2度の日本選手権MVPに輝く。高校卒業後、渡米。‘10年にイリノイ大学に編入し全米大学選手権優勝を果たす。その後、2年連続全米大学リーグシーズンMVPに輝く。‘13年よりプロ車椅子バスケプレーヤーとしてドイツブンデスリーガ「BG Baskets Hamburg」で中心選手として活躍。日本では「NO EXCUSE」に所属。‘08年北京、‘12年ロンドン、‘16リオパラリンピック日本代表。

車椅子バスケチーム「NO EXCUSE」を率いる及川ヘッドコーチと、エースとして牽引する香西選手。それぞれの立場で日本の車椅子バスケ界の中心として活躍する名コンビに、競技の魅力やこれからの夢、お二人をつなぐ意外なエピソードなどを語っていただきました。

車椅子バスケの第一印象はともに「迫力」&「スピード感」

――車椅子バスケとの出合いをそれぞれお聞かせください。

及川「16歳で病気を発症するまで、もともとバスケをしていました。しかし、骨肉腫で足を切断することになり、もうバスケはしない、できないと思いこんでいて、しばらくは無縁の生活でした。でも、闘病生活をしていた時の仲間が、たまたま車椅子バスケのクラブチーム・千葉ホークスのキャプテンの友達だったご縁で、そこから何度か勧誘の連絡をいただき、練習を見に行くことになったのです。最初は『まぁ、しょうがないな…』という付き合い半分の気持ちで足を運びました。そうしたら、これがすごい迫力で!一気に引き込まれました。僕は義足で歩けますので、車椅子に乗る必要はなかったのですが、実際にバスケ用の車椅子に乗って操作してみると、ものすごいスピード感があり、こちらもエキサイティング。チームメイトもすぐに受け入れてくれて、障がいを負ってから初めて“仲間”と感じられるようなグループに出会えて、すぐに車椅子バスケをやろうと決心しました」

香西「僕の場合は、12歳の時、地域新聞に『車椅子バスケット体験講座』という記事を見つけ、父親に連れられて体験に行ったのが車椅子バスケとの出合いです。僕自身はさほどバスケに興味を感じなかったのですが、体験会で競技用の車椅子に乗って、まず衝撃を受けました。普通の車椅子よりはるかに動きやすいし、ターンの動きも素早くて、今まで感じたことのないスピード感だったのです。この体験会は千葉ホークスが主催しており、この時、キャプテンが「一緒にやってみないか」と誘ってくださいました。千葉ホークスの選手たちも、皆さん輝いているように見えたのを覚えています。でも、当時12歳でしたから『こんな年齢でそんな簡単にクラブチームに入れちゃうの?』と思いましたし、一番年齢の近い人で一回り違いでしたから、最初は怖かったですし、緊張もしました」

及川「香西選手が加入してきた時のことをよく覚えていますよ。当時、私も千葉ホークスに在籍しており、いわゆる彼の“教育担当”でした。今ほど体は大きくはありませんでしたが、腕が長くて!車椅子バスケは腕の長さはかなり優位になります。それに加えて、彼はずっと車椅子で生活を送ってきていたので、操作にも違和感がなくスムーズに乗りこなし、どんどん上手くなっていきましたね」

香西「当時まだ12歳でしたから、晋平さん(及川ヘッドコーチ)は僕にとって第二の父、という感じでしたね」

及川「なんだよ、第二の父って(笑)。加入当時に、腕立て、腹筋、背筋を毎日1回ずつ増やしていって、終わったら報告メールを入れるように指示を出したのですが、彼はちゃんと毎日積み重ねていくのですよ。同じようなことを他の選手にも課すのですが、皆、だいたい途中で辞めて、報告しなくなってくるもの。でも、彼だけはずっと続けていましたね。毎日1回増えていきますから、そのうちにとんでもない数になるのです。気が付いたら『え、これはまずいぞ』という数になってしまっていて!僕もすっかり忘れてしまっていて、慌てたことがありましたね」

香西「え、忘れちゃっていたの?!」

及川「すまん、すまん(笑)。慌てて『分割にしよう』とか、『腹筋と背筋の日を分けよう』などと連絡した覚えがありますね。でも、それぐらい、コツコツと積み重ねていける選手だったのです」