Profile 松元卓巳まつもと・たくみ 1989年8月7日生まれ、福岡県出身。鹿児島実業高校→九州共立大学卒業。’16年あいおいニッセイ同和損保入社。福岡支店福岡第二支社所属。家族・妻。休みの日はドライブしながらオシャレなカフェ巡りに。

Profile 松本弘まつもと・ひろし 1985年11月27日生まれ、福岡県出身。立川聾高等学校卒業。’15年あいおいニッセイ同和損保入社。広報部所属。趣味は城巡り・映画鑑賞・友達とカラオケ(十八番はGLAY)。

デフサッカーの日本代表として活躍する松本弘選手と松元卓巳選手。お互いに刺激を受けながらチームメイトとして共に活躍を続けるお二人に、デフサッカーの魅力とこれからの目標を伺いました。

サッカーを始めるキッカケは、トップアスリートたちの活躍

――サッカーを始めたキッカケは何でしたか。

松本弘(以下、松本)「生まれつき耳が聞こえなかったため、小学校時代にいじめに遭った時期がありました。そんな中、Jリーグの開幕戦で観衆がプレーに熱狂し大きな声援を送っているのを見て、「コレだ!」と思ったのです。もし僕がJリーガーになったら、耳が聞こえないことも関係なく皆に応援してもらえるかなって。それが小学3年生の頃です。
それから毎週水曜日に開催されていた健常者のサッカークリニックに通うようになりました。近隣の小学生、中学生、高校生が集まって上級生が下級生に指導するクリニックでしたので、自然と仲間が増えて、毎日が楽しくなっていきました。周囲からも表情が明るくなったと言われるようになりました」

松元卓巳(以下、松元)「友達のお兄さんに声をかけてもらったのがキッカケで、僕も小学3年生の時にサッカーを始めました。最初はフィールドプレーヤーでしたが、小学6年生の時に観たフランスワールドカップの元日本代表GK川口能活さんの活躍を見て、ゴールキーパーに転向しました。チームのピンチを何度も救う姿に、「かっこいい! 僕もこんな守護神になりたい」と思ったのです。

――それからデフサッカーに出会うまで、どのようなサッカー経歴を積んできましたか。

松本「小学4年生の時に福岡から東京に引っ越し、聾学校に入学。この聾学校にはサッカー部がなくて、中学と高校は野球部に入っていました。でも、どうしてもサッカーがやりたくて。福岡にいた時にサッカークリニックでお世話になった先輩も東京に出ていらしたので、聾学校の先輩と一緒に都内のサッカーショップを回って、掲示板を見て部員募集のチームを探し回りました。当時はまだインターネットも出ていなかったので、自分たちの足で回りました。高校生の時は野球部の練習が終わった後、社会人サッカーの練習に行っていました。このチームはユース出身であったり、プロを目指していたような選手ばかりで、レベルの高いチームでした。練習もかなり厳しく、コートに立つと、僕のことも障がい者として扱うことはありませんでした。こんなことを覚えています。試合中に補聴器が外れてしまって、僕が拾おうとしたのですが、『いいから後にしろ』と言ってプレーを止めてくれることもなくて。容赦なく厳しくディフェンスしてきますし、健常者と同じ扱いだったからこそ、僕も強い気持ちで練習に臨めたのだと思います。健常者のスピーディな攻防の中で自分をどう生かすか、というこの時に学んだプレーが、今のプレースタイルの基礎となっていますね」

松元「僕は鹿児島でサッカーをしていました。とても盛んな地域で、レベルも高く、よくJリーグのチームもキャンプに来ていました。中学生の時にそのキャンプの前座試合で県選抜チームと僕の地元の選抜チームが対戦したことがありました。当然、相手は格上の県選抜ですから、開始早々に7点、8点を取られてしまう展開です。そんな中、僕は前半途中からGKとして出場しました。そこから、たまたまですが好セーブを連発して、試合終了まで0点に抑えたのです。どんなに攻め込まれても川口選手のように最後は自分が止めてやる!という強い気持ちになったのを覚えています。この試合をキッカケに『もっと高いレベルを目指したい』と県内の強豪校・鹿児島実業高校に進学しました。当時は130人の部員がいて、GKも12人。正GKにはなれませんでしたが、鹿実で学んだ3年間があったからこそ、今の自分がいると思います」